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水野広徳

坂の上の雲ミュージアムが出来て、秋山兄弟が有名になっていますが、同じ時代、同じ松山で生まれた、忘れてはいけない人がおられますので、ご紹介します。


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司馬遼太郎さんが坂の上の雲を執筆したときに参考にしたに違いない、ノンフィクション戦記「此の一戦」を書いた水野広徳です。



松山市三津浜の生まれ、幼いときに両親を亡くし、親戚の家に預けられるといった不遇な家庭環境で育つ。
愛媛県尋常中学校の卒業試験に一度は落第、新聞配達をしながら、海軍兵学校に4度目の挑戦でようやく合格。

水雷挺挺長として日本海海戦に参加。

戦後、「明治37,38年海戦史」の編集に参加


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1911年(明治44)に「此の一戦」を発行。櫻井忠温の「肉弾」とともに戦記文学の双璧と言われた。

1914年(大正3年) フィクション「次の一戦」を出版
 日本とアメリカの太平洋での海戦を描いた物で、ストーリーは、日本の連合艦隊とアメリカの太平洋艦隊の決戦では、かろうじて日本の連合艦隊が勝利するが、パナマ運河を使って遅れてきたアメリカの大西洋艦隊に敗北するといった、ストーリーで、その時代の日本の戦力では勝利出来ないので、もっと戦力を増やさなければいけない。といった論調のものであった。

第一次世界大戦中に、ヨーロッパへ自費留学し、ロンドンの空襲を経験。

第一次大戦後の欧州視察団にに参加し、戦争の悲惨さ(戦死一二〇〇万人、負傷五〇〇〇万人)を目のあたりに見て、非戦・平和論者に大転換。

1924年(大正一三年)軍部によるアメリカを仮想敵国とした新国防方針が打ち出されたが、それに対し、論文「新国防方針の解剖」を発表。
 
1.日本の仮想敵国はアメリカ
2.日本に同盟する国は一国もない、四面楚歌、
3.短期戦には終わらず、持久戦となる
4.最後は工業力、航空戦だ、海上より飛行機で東京を爆撃し火の海になるだろ
5.軍人は政治家が作り上げる国防方針に従えばよい

  と新国防論を批判

1932年(昭和七年)「興亡の一戦」「日米もし戦わば」を発行するも発禁処分

226.515事件という陸軍のテロによって、批判をすることが命がけであった時代に

国政に勇気を持って反対した、冷静な判断と先見の明のある勇気のある人でした。


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この本は私が中学校時代に古本屋で購入した物ですが、「此の一戦」と「肉弾」がセットになった物で、昭和四年発行となっています。


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櫻井忠温
明治12年松山市ことうじんまち(大街道)に生まれ、貧しい士族の出身
陸軍士官学校、歩兵小隊長として、第1回旅順攻撃に参加、機関銃で撃たれて全身蜂の巣。
火葬寸前で息を吹き返した。
入院中に「肉弾」を執筆。惨きわまりない戦場の極限状態の中で、部下や親友の安否を気づかい、日本の家族を思いやる兵士達を描いた感動作15カ国に翻訳・出版された


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バルチック艦隊の乗組員の一人であったプリボイという人が書いた{ツシマ」、ロシア側から見た日本海海戦「対馬沖海戦」のノンフィクションです。

バルチック艦隊に乗り組んでいた「水兵」ブリボイが書いた、ロシア側から見た、日本海海戦の模様が描かれています。












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日本海海戦に観戦武官として参加した、アルゼンチンのマヌエル・ドメック・ガルシア大将の日本海海戦の記録です。


















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次は、やはり松山出身の早坂暁さん(昭和20年に海軍兵学校入学)の書かれている「戦艦大和日記」
 日露戦争以後、どのような流れで太平洋戦争の敗戦に至ったかと言う近代史を、結果的には無用の長物だった戦艦大和の建造にあわせて描いた小説です。水野広徳も登場人物の一人として描かれています。四巻まで出版されてまだ未完です。









今日の6冊でした。
by katyan4 | 2007-08-07 16:10 | 今日の一冊 | Trackback | Comments(0)

私の好きな音楽とそれを聴く装置ついて

by Katyan
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